恋愛エッセイ心の傷


忘れられない歯医者さんの言葉


小学生の時からずっと同じ歯医者さんに行っていた。引っ越してもわざわざそこに通うのは、なんとなく初めての歯医者さんに行くのが怖かったから。

先生は一人で、女性の助手さんが三人いた。

いつもいつも冗談ばかり言って、片時も喋ってない事がない楽しい先生だ。うちの家族全員そこにお世話になっていたので、行くと必ず、妹はどうしてる、弟はどうした、おばあちゃんは元気かと色々聞く。そして何か答えると決まって茶化して私をからかった。

そうしているうちに、痛いのも気が付かず治療が終わる。歯医者さんは子供に人気だった。

そんなに頻繁に行っていたわけではないが、年に一度は必ず行った。

27才の時、新しい家が完成して引っ越したので、保険証が変わった。ちょうどその頃、歯医者さんに行ったら、先生はいつもの調子で「何で保険証が変わったんだ、何で引っ越したんだ」と聞いて来た。

私は家を建てたのが嬉しくて、先生にその話をした。

夫の事も聞かれた。

学生なのに何でローンを貸してくれたのかとか、どうやって払うの?とか先生はいつもより興味を持って、次々質問を浴びせかけて来たので、治療は進まなかった。

いつもは15分くらいで終わるのに、喋ってばかりいて一時間弱は治療にかかったと思う。そのうち待ち患者が待ち合い室に座れない状態になってきた。 先生はやっと質問をやめて一人で喋りはじめ、治療を再開した。

治療が終わった椅子の上で、先生は見た事もない真面目な口調で、また話しはじめた。

言葉じりは忘れてしまったが、内容はこんなかんじ。

今まで子供の時からずっとあなたを診て来たが、いつもいつも危なっかしくて心配だった。いつとんでもない不幸に、自分から足を突っ込むかと、ヒヤヒヤしていた。

でも、もう安心出来る。

あなたは素晴らしい夫を選んだし、自分の力で家も手に入れた。

夫は真面目で将来は医者。

今は大変かも知れないけど、医者になれば金銭的にもステイタスとしても、何の問題もない。

住むところとほんの少々の仕事があれば、人は何も困る事はない。

二人とも仕事がなくなるような人間じゃないし家もあるから安心だ。

あなたはこれから先、絶対に不幸になることはないと断言するよ。

でもいつか不安になって、あなたは自分から幸せを手放してしまうかもしれない。

どんなに幸せな状況にいるか、自分で気が付かないかも知れない。

その時必ず、僕が言った事を思い出すんだよ。

あなたはこれから一生涯、絶対に不幸になることはない。

それを思い出して。

どうしても我慢出来ないと思う事があったら、すぐに行動を起こさないで、1週間だけ我慢してごらん。きっと何をすればいいか、1週間あればわかる。あなたはとても頭のいい人だから。

自分で自分を傷つけちゃいけないよ。

ヤケになってもいけない。

信じすぎてもいけない。

あなたが見た目と違う素直さや健気さを持っている事をあなた自身が知らなくても、僕は知っているし、ダンナさんも知っているはずだ。

もしあなたを見た目だけで判断する人が出て来ても、その人の話に耳を傾けてはいけないよ。信じていいのは、ちゃんとあなたの中身を見てくれる人の言う事にだけ。

判断は難しい。

だから、頭から何でも信じてしまわないで。

迷ったら、ダンナさんの言う事だけ聞きなさい。

食べるものがあって、仕事があって、家があって、車にも乗れて、たまには外で一杯やれる。その程度が一番幸せなんだよ。

いつかきっとわかるから。

絶対に忘れちゃいけないよ。

ちょっと話の順番違うかも知れない。話は30分以上続いたので、他にも色々言われたが、あとは忘れてしまった。

私はとにかく黙って頷いた。

先生は「いい子だ」と言って私の頭を撫でた。(私、27才なんですけど……)

でも頭を撫でてもらうと、とても安心して嬉しい気持ちになれた。

私は先生に、悩みを打ち明けたり、不安な様子を見せたりした事は一回もない。聞かれた事に答えるだけで、自分から自分の事を話した事もない。それなのになぜ、いつも冗談しか言わない先生が、こんなことを言うのだろうと不思議に思ったが、「絶対忘れちゃいけないよ」と言われたので、忘れなかった。

私は家を手に入れたばかりで幸せだったし、自分が不幸に飛び込むなんて、あるはずはないと思っていた。だから、先生は心配性だなと思った。

それに今時ダンナさんの言う事を聞けだなんて、おじさんだからそんな事言うんだなと思っていた。

そして、待ち患者に睨まれながら、歯医者さんを後にした。

いつもは待ち時間も入れて30分で終わる歯医者さんが、その日は3時間かかった。その後先生はいつもと変わらない明るい様子で、次の患者さんに面白おかしい話をしていた。

時々、歯医者さんの言葉を呪文のように思い出す。

――あなたはこれから一生涯、絶対に不幸になることはない。――

私は出来るだけ先生の言葉通りになるように、不幸を避けるよう気をつけて生きてきたと思う。でも歯医者さんはなぜ、突然あんな事を言ったんだろう。何が言いたかったんだろう。

ここ数年、そこの歯医者さんに行ってない。先生はもうたぶん50近くになっているはずだけど、今でも若々しくおしゃべりばかりしているのかな。

歯医者さん、年に数回しか会わない私の事を、心配してくれてありがとう。

世の中には「いい人」もたくさんいるね。

ちなみに、歯医者さんは長身でいい男だったが、私は憧れや恋心を1度も抱いた事がなかった。今考えるとなぜだろう……やはり馬鹿みたいに大口開けて治療してもらう相手には、そんな気持ちは持てないものか。それともおじさん過ぎて対象外だったのか?(^^;)

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